
津風呂湖畔の山桜
昨日とは打って変わっていい天気になったけれども、連チャンで自転車に乗る気も起こらず、桜でも撮りに行くかということで、久しぶりにフィルムを入れて本格的な撮影でも? ネット情報によると御杖方面はまだ早そうなので、吉野方面へ行ってみる。
津風呂湖畔の桜はやや散り始めているが、まだまだ見頃。ここは山桜が多いので見応えがある。ボンボンに花を付けるソメイヨシノよりも、葉っぱの赤茶色と一緒に咲く山桜の方が美しいと最近思うのだが・・。
その後、下市町の西山地区へ行ってみたが、サンシュユもすでに色褪せ、完全に遅かった。薄いピンクの花を咲かせる背の低い木(杏かな?)も散っていて時既に遅し。ここは桜より早いんだった。まったく絵にならず、フィルムは一枚も消費せず。2年前に訪れたときは貝原のしだれ桜が満開で、ちょうどそれと同じタイミングがベストのようだ。ここも駐車禁止の看板が目立つようになり、カメラマンに荒らされてきたようだ。ここももう終わりだな。
貝原の枝垂れ桜もついでに寄ってみたけど、やっぱり遅かった。遠目にはきれいに見えるんだけど、近くで見ると明らかに半分ほど散っている。すでに誰もいない。盛りを過ぎた桜など誰も見向きもしないんだな。
黒滝から地蔵トンネルを回って帰ってきたけど特にめぼしい発見もなし。これと言った収穫もなく、疲れただけで終わった一日だった。というか、もう写真だけが目的の「純粋撮影」はいらない。写真なんか撮っても面白くも何ともない。昔は桜のシーズンともなれば土日ごとに一日中走り回っていたものだが、よくあんなことやってたよなぁ・・。おかげで自転車はずっと留守になってたよ。その間にサビサビになってしまった。
いったいあれは何だったんだ? 一時の熱に冒されていたのか? クソ会社を辞めてヒマになったら毎日写真が撮れると喜んだのも束の間、ヒマになった途端に熱が冷めた。もう二度と熱が戻ることはない。

津風呂湖畔のツツジ

西山地区はすでに遅し

貝原で見つけた桃

貝原のしだれ桜もすでに遅し

天気が良かったので自転車で奈良市写真美術館まで行って、「十人の大和路」展を見てきました。奈良大和路を題材に撮り続ける十人の写真家の作品を一堂に会したもので、それぞれの個性が比較できて見応えがあります。奈良にこんなところがあったのかと改めて気づかされることもあり、興味深いです。

写真展を観た後は資料室で読書です。ここは写真関係の書籍や写真集がたくさん揃っていて、何時間いても飽きません。コスト削減の影響か、閉鎖されていた喫茶コーナーも4/1から復活しました。「十人の大和路」展は6/25まで開催中です。一応無料招待券が2枚あるんで、欲しい方は差し上げますよ。(^_^;

上街道をぶらぶら走りながら桜の様子を偵察するのも目的だったんですが、もうすぐ満開近しのようですね。この土日が一番の見頃になるでしょう。
カメラ事業からの撤退が相次ぐ中、富士フイルムのサイトにこんなアナウンスが掲載されていた。おそらくコニカミノルタの撤退を受けて、フィルム事業はどうなるのか?と問い合わせが殺到したからではないだろうか。
この中で「人間の喜びも悲しみも愛も感動も全てを表現する写真は、人間にとって無くてはならないものであり、長年のお客様のご愛顧にお応えするためにも、写真文化を守り育てることが弊社の使命であると考えております」(以上引用)という表現には力強いものを感じる。この表現が本心であれば、企業の理念とは何たるかを心得ていると言えるだろう。理念を忘れて利益追求だけに走った企業にはもはや存在意義はない。
しかし気になるのは「弊社もこのような市場変化に対応するため、大幅な構造改革を推進しております」(以上引用)という表現だ。「大幅な構造改革」が意味するところは? まさか「フィルム事業は縮小し、デジタルに注力してまいります」ということじゃないだろうな? おいおい、自分で自分の首締めるようなことするなよな。
コニカミノルタなき後はフジ頼みしかない。コダックなんていざとなったらさっさとやめちゃうだろう。何と言ってもアメリカだからな・・。富士は日本人の心だ。
この中で「人間の喜びも悲しみも愛も感動も全てを表現する写真は、人間にとって無くてはならないものであり、長年のお客様のご愛顧にお応えするためにも、写真文化を守り育てることが弊社の使命であると考えております」(以上引用)という表現には力強いものを感じる。この表現が本心であれば、企業の理念とは何たるかを心得ていると言えるだろう。理念を忘れて利益追求だけに走った企業にはもはや存在意義はない。
しかし気になるのは「弊社もこのような市場変化に対応するため、大幅な構造改革を推進しております」(以上引用)という表現だ。「大幅な構造改革」が意味するところは? まさか「フィルム事業は縮小し、デジタルに注力してまいります」ということじゃないだろうな? おいおい、自分で自分の首締めるようなことするなよな。
コニカミノルタなき後はフジ頼みしかない。コダックなんていざとなったらさっさとやめちゃうだろう。何と言ってもアメリカだからな・・。富士は日本人の心だ。
昨日付でニコンのサイトにショッキングなニュースが掲載されていた。F6とFM10だけ残して生産中止だと? 最高級機と最低級機だけのラインナップかよ? なんと大胆な・・・
事実上のフィルムカメラ市場撤退とも取れる発言である。フィルムカメラ市場の急速な縮小が進み、次々と撤退していくメーカーが相次ぐ中、未だにMFシステムを温存するニコンだけは銀塩最後の砦と目されていた。デジカメ全盛期のこの時代にフィルムカメラの最高峰F6を発売するなど、ニコンが存在する限り、銀塩は安泰だろうと言われていた。しかしそのニコンでさえ、ついにフィルムカメラ事業を維持できなくなったようだ。近い将来、完全に撤退するための布石であることは間違いない。F6は最後の置き土産か。他メーカーも追随して撤退の動きが一層加速するだろう。
僕自身デジタルカメラを使っているし、その便利さは十分承知しているのだが、やはり写真とは別物なのだ。誤解を恐れずに言えば、デジタルは写真ではない。写真家が朝早くから最高の瞬間を狙って何時間も待ち続けるのはなぜか? それはかけがえのない一枚をものにするためである。しかしデジタルなら最高の瞬間でなくても後からいくらでも修正することができる。ちょっと雲の位置が気に入らないと思ったら動かせばいい、邪魔な観光客が入ったら消してしまえばいい、もう少し花のボリュームが欲しいと思ったら足せばいい。しかも修正の痕跡をまったくわからないようにすることができる。それが当たり前になってしまうと、もはや写真を撮るという行為そのものが否定される。写真は撮るものではなく、創作するものになってしまう。
これからは素晴らしい写真を撮っても誰も感動しない時代が来るだろう。たとえそれが本物の写真だとしても、必ず疑いの目で見られる。しかし修正していないことを証明する手段はないのだ。写真が人を感動させる力を持つのは、それが真実だからである。写真が「真」を写すものでなくなったとき、写真はその力を失う。写真家という職業も成り立たなくなるだろう。
写真が面白くなくなったのは間違いなくデジタルカメラの進出によるものである。捏造された写真と区別がつかないのなら、もはや「真面目に」写真を撮る意義などバカバカしいものになってしまう。デジタルカメラは写真文化の破壊者である。
これまで何の不満もなく完成の域に達していた写真の世界に横から割り込んできたデジタルカメラという闖入者。その力は初めは無視するほど弱かったが、次第に力を伸ばし、いつしか既存の写真文化を破壊するまでになった。我がもの顔で増殖を続けるデジタルカメラはウィルスかガン細胞か、はたまたエイリアンか?
デジタルも銀塩もその長所を生かしながら共存できるのなら何も問題はない。しかし市場原理がそれを許さない。フィルムの供給も風前の灯火だ。銀塩写真は近い将来絶滅することは間違いないだろう。それとともに写真文化も消え去るのだ。もはや既存の写真という芸術は成り立たない。いよいよ写真の時代は終わりに近づきつつある。フィルムカメラを捨て去ったメーカーも、デジタルカメラの過当競争に巻き込まれて淘汰されていくだろう。デジタルカメラの出現がすべてをメチャクチャにしたのである。
事実上のフィルムカメラ市場撤退とも取れる発言である。フィルムカメラ市場の急速な縮小が進み、次々と撤退していくメーカーが相次ぐ中、未だにMFシステムを温存するニコンだけは銀塩最後の砦と目されていた。デジカメ全盛期のこの時代にフィルムカメラの最高峰F6を発売するなど、ニコンが存在する限り、銀塩は安泰だろうと言われていた。しかしそのニコンでさえ、ついにフィルムカメラ事業を維持できなくなったようだ。近い将来、完全に撤退するための布石であることは間違いない。F6は最後の置き土産か。他メーカーも追随して撤退の動きが一層加速するだろう。
僕自身デジタルカメラを使っているし、その便利さは十分承知しているのだが、やはり写真とは別物なのだ。誤解を恐れずに言えば、デジタルは写真ではない。写真家が朝早くから最高の瞬間を狙って何時間も待ち続けるのはなぜか? それはかけがえのない一枚をものにするためである。しかしデジタルなら最高の瞬間でなくても後からいくらでも修正することができる。ちょっと雲の位置が気に入らないと思ったら動かせばいい、邪魔な観光客が入ったら消してしまえばいい、もう少し花のボリュームが欲しいと思ったら足せばいい。しかも修正の痕跡をまったくわからないようにすることができる。それが当たり前になってしまうと、もはや写真を撮るという行為そのものが否定される。写真は撮るものではなく、創作するものになってしまう。
これからは素晴らしい写真を撮っても誰も感動しない時代が来るだろう。たとえそれが本物の写真だとしても、必ず疑いの目で見られる。しかし修正していないことを証明する手段はないのだ。写真が人を感動させる力を持つのは、それが真実だからである。写真が「真」を写すものでなくなったとき、写真はその力を失う。写真家という職業も成り立たなくなるだろう。
写真が面白くなくなったのは間違いなくデジタルカメラの進出によるものである。捏造された写真と区別がつかないのなら、もはや「真面目に」写真を撮る意義などバカバカしいものになってしまう。デジタルカメラは写真文化の破壊者である。
これまで何の不満もなく完成の域に達していた写真の世界に横から割り込んできたデジタルカメラという闖入者。その力は初めは無視するほど弱かったが、次第に力を伸ばし、いつしか既存の写真文化を破壊するまでになった。我がもの顔で増殖を続けるデジタルカメラはウィルスかガン細胞か、はたまたエイリアンか?
デジタルも銀塩もその長所を生かしながら共存できるのなら何も問題はない。しかし市場原理がそれを許さない。フィルムの供給も風前の灯火だ。銀塩写真は近い将来絶滅することは間違いないだろう。それとともに写真文化も消え去るのだ。もはや既存の写真という芸術は成り立たない。いよいよ写真の時代は終わりに近づきつつある。フィルムカメラを捨て去ったメーカーも、デジタルカメラの過当競争に巻き込まれて淘汰されていくだろう。デジタルカメラの出現がすべてをメチャクチャにしたのである。
先週天川で撮影したポジのスキャンが終わったのでちょっと公開してみる。今回は三脚もPLも使わずにすべて手持ちで撮ったのだが、ルーペで拡大してもブレは認められず非常にシャープに写っていた。PLなんか使わなくてもこのくらい鮮やかに写るものなのだ。風景写真=PL+三脚という固定観念はいい加減捨てよう。PLさえ使わなければ手持ちでこんな写真も撮れるのだから・・。おかげでこれまで撮れなかった場所の写真が撮れた。
それにしてもデジタル写真と銀塩写真は本質的に表現性が違うような気がする。それは解像度とかコントラストといった数値では表せないきわめて感覚的なものだ。言葉ではうまく表現できないのだが、銀塩写真には「湿度」が感じられるのに対し、デジタル写真は妙に乾燥してパサパサした感じがするのは自分だけだろうか?




【撮影データ】
Nikon F80S/Nikkor 24-85mm/Kodak EB3
Nikon COOLSCAN IVにて2900dpi取り込み後、縮小
それにしてもデジタル写真と銀塩写真は本質的に表現性が違うような気がする。それは解像度とかコントラストといった数値では表せないきわめて感覚的なものだ。言葉ではうまく表現できないのだが、銀塩写真には「湿度」が感じられるのに対し、デジタル写真は妙に乾燥してパサパサした感じがするのは自分だけだろうか?




【撮影データ】
Nikon F80S/Nikkor 24-85mm/Kodak EB3
Nikon COOLSCAN IVにて2900dpi取り込み後、縮小
最近雨でどこも出られないので、'03年以降ほったらかしになっていた写真の整理でもしてみた。といってもフィルムごとに通し番号を振って、内容がわかるようにコメントを書くだけだが・・。スキャンはほとんど手つかずの状態だからまだまだ時間がかかる。'03年分は既にスキャンしていたものの、HDDクラッシュで全部吹っ飛んでしまったのでまたやり直しだ。
'02年以降、各年ごとにポジの本数をカウントしてみると次のようになった。写真の盛衰をそのまま表していると言えよう。
'02年 44本
'03年 10本
'04年 18本
'05年 4本
'03年が少ないのは意外だったが、年々衰退の一途をたどっている。最近はデジカメを使うようになった影響もあるが、今年の少なさはもはや壊滅的だ。そういえば期限の切れたフィルムがまだ3本ほど残ってるんじゃないかな?
'00年をピークに写真は衰退を続けていたが、それでも'02年にはまだ44本も撮っていたのか・・。そういえばこの年はよく動いていたものだと感心する。覚えているだけで5回は旅行に行っているはずだ。'03年からいよいよ下火になり、'04年に入ってHPを閉鎖したことから完全に終焉を迎えた。
今年はもはや一眼レフで撮ったポジは1本もない。コンパクトカメラで撮ったのが4本あるだけだ。三脚を据えてじっくりと撮るなんていうスタイルはもうめんどくさくてやる気もなくなった。これから信州の紅葉を撮りに行こうなんていう気はさらさら起こらない。もう風景写真はいらない。だいたい風景写真を撮る人間が嫌いなのだ。
もう写真が復活することはないだろう。もしあるとすればそれは「散歩写真」ではないだろうか? 街を歩きながら目についた風物や人間を撮る・・・そんなスタイルが向いているような気がする。写真とは結局、自分の視点を表現するものである。それが「写真は発見の芸術である」と言われる所以だ。誰もが行く場所で誰もが撮る風景を撮って何の意味があるのか? 日常の何気ない風物の中から自分だけの視点で自分だけの写真を撮りたい。
これから旅に出るとすれば、気合いを入れて撮りに行くのではなく、カメラ一つ持ってふらっとどこかの街に出かけ、あてもなく彷徨って写真を撮り歩くというスタイルがいいだろう。自転車はダメだ。自転車のスピードでは絶対に見えないものがある。写真と自転車はくっつきそうでくっつかない。やはり写真を復活するには自転車と切り離さなければならない。
'02年以降、各年ごとにポジの本数をカウントしてみると次のようになった。写真の盛衰をそのまま表していると言えよう。
'02年 44本
'03年 10本
'04年 18本
'05年 4本
'03年が少ないのは意外だったが、年々衰退の一途をたどっている。最近はデジカメを使うようになった影響もあるが、今年の少なさはもはや壊滅的だ。そういえば期限の切れたフィルムがまだ3本ほど残ってるんじゃないかな?
'00年をピークに写真は衰退を続けていたが、それでも'02年にはまだ44本も撮っていたのか・・。そういえばこの年はよく動いていたものだと感心する。覚えているだけで5回は旅行に行っているはずだ。'03年からいよいよ下火になり、'04年に入ってHPを閉鎖したことから完全に終焉を迎えた。
今年はもはや一眼レフで撮ったポジは1本もない。コンパクトカメラで撮ったのが4本あるだけだ。三脚を据えてじっくりと撮るなんていうスタイルはもうめんどくさくてやる気もなくなった。これから信州の紅葉を撮りに行こうなんていう気はさらさら起こらない。もう風景写真はいらない。だいたい風景写真を撮る人間が嫌いなのだ。
もう写真が復活することはないだろう。もしあるとすればそれは「散歩写真」ではないだろうか? 街を歩きながら目についた風物や人間を撮る・・・そんなスタイルが向いているような気がする。写真とは結局、自分の視点を表現するものである。それが「写真は発見の芸術である」と言われる所以だ。誰もが行く場所で誰もが撮る風景を撮って何の意味があるのか? 日常の何気ない風物の中から自分だけの視点で自分だけの写真を撮りたい。
これから旅に出るとすれば、気合いを入れて撮りに行くのではなく、カメラ一つ持ってふらっとどこかの街に出かけ、あてもなく彷徨って写真を撮り歩くというスタイルがいいだろう。自転車はダメだ。自転車のスピードでは絶対に見えないものがある。写真と自転車はくっつきそうでくっつかない。やはり写真を復活するには自転車と切り離さなければならない。


